「自画像」 矢島一美

選評 : 全日写連関東本部委員 中村明弘

画家は自画像をよく描く。写真家はどうか。土田ヒロミ氏が自分の顔を撮りはじめたのは自分の老化に気づいたからだという。一日も休まず継続して最後はデスマスクで終わると面白いドキュメントになるはずだ、と。

作者にとってのこの「影の自画像」はどんな意味を持つのだろうか。影の映るバックのテクスチャー(感触、質感)が画面に不思議な効果を生んでいる。遠い山肌のようにも、海原のようにも見える。何か、つかみどころのない、不確かな世界を象徴しているかのようでもある。そこに一人の影が立っている・・・・。

この写真を見ていて私は、宮沢賢治の一人田を歩く姿を撮った写真を思い出す。山高帽をかぶり、長いよれよれのコートを着、両手を後ろに組んで、うつむき加減に荒れた田の中を歩くその姿。その賢治の姿とこの「自画像」が、どこかで響き合う。

写真は確かに外界のコピーであるかもしれないが、何に惹かれ、どこでシャッターを押すかは、その人の心が決める。だから、撮った写真にその人の人生の迷いや、彷徨などが反映するときもあるに違いない。

自分自身を撮ることの少ない私たちは、強い斜光線の中に浮かび上がる風景などを撮ろうとして足元から長く伸びる自分の影を見つけ戸惑うことが多いが、自己と対峙しているような新鮮な思いになることもある。地面や壁に映る自分の影には、実像(自分)と違った「何か」があるように思えたりして面白い。

そんな想いで作者はシャッターを押したに違いない。案外写真の本質に迫るものがここにはあるのかもしれない。挑戦は面白い。大いに試すとよい。「これは写真にならないな」と、簡単に決めつけてしまわないで、「心が動いたら」撮る。そうして撮りながら常に考えてみる。そのことの大切さをこの写真を見ていてあらためて考えさせられた。

 

「自画像」  矢島一美