「 教室 」 遠藤 啓

 選評 :全日写連関東本部委員 中村明弘

カンボジアの小学校の教室風景。日本で言えば小学校1.2年生くらいだろうか。きりっとした顔立ちの少女が鉛筆を手にじっと見入るのは、「ノート直し」の先生の手元。先生が何事か言いながら生徒のノートにボールペンで書き込んでいる。少女は先生が書きやすいように左の人差し指でノートの端を押さえながら、期待を込めてじっと見つめている。その姿が印象的だ。ノートは何度もめくられたのだろう。紙が波打っている。大切に使われているノートなのだろう。右奥から陽の光が入っている。どういう光だろうか。窓のすぐ外の木の影か何かが一緒に壁に映っている。左からの光は直射日光ではないが外の明るさがそのまま教室に入ってきている。柱に壊れた蝶番が残っている。画面左はすぐ外なのだ。光は先生の白いシャツの背に、そして少女の顔を優しく輝かせている。先生と少女の見つめるノートはいわゆる「手暗」(てくら)状態で暗い。しかし、そんなことは一生懸命な学びの場には、どうでもいいのかもしれない。

写真というものの本質には、「こんなだった」とか「こんなものがあった」と、人に知らせる役割がある。私はこの作品から「学び」に本当に大切なモノは何なのだろうかと考えさせられた。
現在、日本の教育現場では、いろいろな意味で教師自身も子どもたちを写真に撮ることができなくなっている。この写真のような子どもの一生懸命な学びの姿はあるはずなのだが、写真に撮れないということは残念である。子どもたちはスマホでゲームをしているだけでは決してないはずだ。